島津義久(しまずよしひさ)
戦国大名[日本]
(慶長16年1月21日没)
1611年 3月5日 死去享年79歳
島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
薩摩国の守護大名・戦国大名。
島津氏第16代当主。
島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。
その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。
義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。
しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2か国と日向諸県郡を安堵される。
豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。
生涯=
幼少時=
天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・島津貴久の嫡男として伊作城(現在の日置市)に生まれ、幼名は虎寿丸と名づけられた。
幼少の頃は大人しい性格だった。
しかし祖父の島津忠良は「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と兄弟の個性を見抜いた評価を下しており、義久に期待していた。
元服した直後は祖父と同じ忠良(ただよし)を諱とし、通称は又三郎と名乗った。
のちに第13代将軍・足利 ……
島津義久が亡くなってから、413年と259日が経過しました。(151107日)