大友義統(おおともよしむね)
戦国大名[日本]
(慶長15年7月19日没)
1610年 9月2日 死去享年53歳
大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。
大友氏の第22代当主。
大友宗麟の嫡男。
生涯=
足利幕府との決裂・織田との同盟=
永禄元年(1558年)、第21代当主・大友義鎮(のちの宗麟)の長男として生まれる。
将軍・足利義昭の偏諱を受け、義統と名乗った。
天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期、父の隠居により、家督を継いで第22代当主となる。
家督相続はなされたものの、天正5年頃までは宗麟・義統との共同体制が行われていた。
毛利家を支持する将軍義昭により「九州六ヶ国の兇徒」と貶められると、新政権織田信長に近づき信長より毛利領の内で長門・周防を与えるという朱印状を得る。
さらに天正7年(1579年)11月27日、織田信長の推挙によって天皇から従五位下・左兵衛督に叙位・任官された。
島津氏との戦い=
ただし、大友家の実権は依然として父の宗麟が掌握していた。
天正6年(1578年)、日向国に侵攻するも、耳川の戦いで大敗を喫し、以後は大友家臣団の分裂が始まる。
また、父との二頭政治にも弊害が現れて父と対立し、かえって大友家の内紛を過熱させることとなった。
天正8年(1580年)には有力庶家である田原親貫や田北紹鉄が反乱を起こし、秋月種実と内通したので、その鎮圧のために一時府内を本拠に戻さざるを得なかった。
重臣・立花道雪が病没、さらに肥後方面を押さえていた志賀氏とも疎遠となる ……
大友義統が亡くなってから、414年と77日が経過しました。(151291日)