勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)
公家[日本]
(慶長7年12月8日薨去)
1603年 1月19日 死去享年60歳
勧修寺 晴豊(かじゅうじ はるとよ / はれとよ)は、戦国時代から安土桃山時代の公家(公卿)。
堂上家の勧修寺家(名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)の14代当主。
父は13代当主・勧修寺晴右(晴秀)、母は粟屋元子(右京亮・粟屋元隆の女子)。
子に勧修寺光豊・甘露寺経遠・伊達行源・坊城俊昌・阿部致康・鳳林承章・佐久間安政室がいる。
また、兄弟姉妹には万里小路充房(万里小路輔房の養子)・日袖(立本寺住持)・正親町三条公仲室、そして誠仁親王妃で後陽成天皇生母となった勧修寺晴子(新上東門院)などがいる。
極位極官は従一位・権大納言、准大臣宣下を被り、薨去後に贈内大臣。
牌所である近江・高島の幡岳寺の戒名は「清雲院殿義同三司孤月西円大居士」
生涯=
天文13年(1544年)2月24日、勧修寺晴右の子として誕生。
父と同じく、室町幕府の第12代将軍・足利義晴からの偏諱を受ける。
永禄8年(1565年)5月18日、晴豊は山科言継とともに、知恩寺の三好長逸、革堂の三好義継のもとを訪れた。
元亀3年(1572年)12月28日、参議・右大弁となる。
天正2年(1574年)3月28日、左大弁となる。
天正3年(1575年)8月、晴豊は勅使として越前に赴き、吉田兼右も同道し、17日に織田信長がいる北庄を訪れた。
晴豊は越前一向一揆と戦う信長を見舞い、20日に帰洛した。
天正4年(1576年)5月11日、晴豊と甘露寺経元は勅使として、石山本願寺と対峙する信長のもとに赴いた。
6月6 ……
勧修寺晴豊が亡くなってから、422年と69日が経過しました。(154205日)