河村瑞賢(かわむらずいけん)
商人[日本]
(元禄12年6月16日没)
1699年 7月12日 死去
河村 瑞賢(かわむら ずいけん、元和4年2月15日〈1618年3月11日〉 - 元禄12年6月16日〈1699年7月12日〉)は、江戸時代初期の豪商。
政商として全国各地の航路開拓や治水工事を指揮し、晩年には武士身分を得た。
幼名は七兵衛、通称は平太夫、諱は義通。
来歴=
生い立ち=
伊勢国度会郡東宮村(とうぐうむら、現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農に生まれるが、『評伝 河村瑞賢』(博文館)によれば先祖は村上源氏で、北畠氏の家来筋であると自称していた。
13歳の時に江戸に出たという。
彼はかなりの野心家で江戸に出て奉公勤めしている折、川岸にお盆の供え物の野菜が川に流されているのを見つけそれを乞食に拾わせ樽に塩漬けにしたものを売って金をため込んだという逸話が残っている。
また九十九里浜東端の飯岡で江戸幕府(桑名藩)の土木工事(椿海の干拓/新川の開削工事など)に携わり徐々に資産を増やすと、材木屋を営むようになり明暦3年(1657年)、明暦の大火の際には木曽福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た。
寛文年間に老中で相模国小田原藩主・稲葉正則と接触、幕府の公共事業に関わっていく。
航路開拓=
それまで幕府代官所などが管轄する年貢米を奥州から江戸へ輸送する廻米には、本州沿いの海運を利用し、危険な犬吠埼沖通過を避け、利根川河口の銚子で川船に積み換えて江戸へ運ぶ内川江戸廻りの航路が使われていた。
幕命により瑞賢は ……
河村瑞賢が亡くなってから、325年と130日が経過しました。(118836日)