久坂玄瑞(くさかげんずい)
長州藩士、幕末の志士[日本]
(元治元年7月19日没)
1864年 8月20日 死去自刃享年25歳
久坂 玄瑞(くさか げんずい、1840年(天保11年5月) - 1864年8月20日(元治元年7月19日))は、幕末の長州藩士。
幼名秀三郎、諱は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。
妻は吉田松陰の妹・文(後の楫取美和子)。
長州藩における尊王攘夷派の中心人物。
栄典は贈正四位(1891年)。
経歴=
幼少年期から藩医になるまで=
天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)。
幼少の頃から城下の私塾であった吉松塾で四書の素読を受けた(この塾には1歳年長の高杉晋作も通っていた)。
ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。
そして、そのわずか数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。
こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。
17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。
身長は6尺(約180cm)ほどの長身で恰幅がよく、声が大きく美声であった。
片目は少しスガメであった。
九州遊学から松下村塾入門へ=
安政3年(1856年)、玄瑞は兄事する中村道太郎のすすめで九州に遊学する。
九州各地の著名な文人を訪ね、名勝地を巡りつつ詩作にふける旅に出 ……
久坂玄瑞が亡くなってから、160年と92日が経過しました。(58532日)