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三条実美(さんじょうさねとみ)

公卿、政治家、兼任内閣総理大臣、公爵[日本]

1891年 2月18日 死去享年55歳

三条実美 - ウィキペディアより引用

三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字体:三條 實美、1837年3月13日〈天保8年2月7日〉- 1891年〈明治24年〉2月18日)は、日本の公卿、政治家。
三条家31代。
位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。
号は梨堂(りどう)。
変名は梨木 誠斉(なしき せいさい、旧字体:梨木 誠󠄁齊)。
幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。
内閣発足以後の内閣総理大臣臨時代理も兼任している。
生涯= 生い立ち= 天保8年(1837年)、公卿・三条実万の四男として誕生。
幼名は福麿。
実母は正室である山内紀子だったが、四男のために三条家庶流である花園公総の養子となる予定だった。
幼い頃から聡明で知られ、教育係の儒者・富田織部から高い尊皇意識の影響を受ける。
安政元年(1854年)2月、三条家の嗣子であった次兄・三条公睦が早世。
本来ならば、公睦の嫡子・公恭が継ぐものを、この甥の幼さと織部の強い推挙から、4月に福麿が嗣子となった。
8月には元服して実美と名乗り、この読みは、通例では「美」を「よし / はる」と読んだが、父が忌んだために、儒者・池内大学の勧めから「さねとみ」となった。
尚、甥・公恭は実美の養子に迎えられる。
父が攘夷達成のために「戊午の密勅」発出の立役者となると、幕府から迫害を受け、安政5年(1858年)10月23日、父は隠居・蟄居し、織部ら三条家 ……

三条実美が亡くなってから、134年と41日が経過しました。(48985日)

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