山内容堂(やまうちようどう)
土佐藩主[日本]
(諱・豊信、明治5年6月21日没)
1872年 7月26日 死去脳溢血享年46歳
山内 容堂 / 山内 豊信(豊茂)(やまうち ようどう / やまうち(やまのうち) とよしげ、文政10年10月9日〈1827年11月27日〉 - 明治5年6月21日〈1872年7月26日〉)は、幕末の外様大名、明治初期の華族。
土佐藩15代藩主。
位階は従一位。
諱は豊信。
隠居後の号は容堂。
土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。
母は側室の平石氏。
酒と女と詩を愛し、自らを好んで「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」や「酔翁」と称した。
藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、尊王家でありながら佐幕派でもあり、一見中途半端な態度をとったことから、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されることがあった。
経歴=
生い立ち=
文政10年10月9日(1827年11月27日)に土佐藩の分家であった南屋敷(南邸)に山内豊著と潮江村石立の下士平石子の女(名は瀬代)の長子として生まれる。
幼名は輝衛(てるえ)。
輝衛の生家である南邸山内家は石高1500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下であった。
通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが、輝衛は分家の出であったため高知城下で生まれ育った。
弘化3年3月7日、父豊著の隠居に伴い、輝衛改め豊信は南屋敷の家督を嗣ぎ、1500石の蔵米を受ける身となった。
藩主就任=
嘉永元年(1848年)の7月に江戸で13代藩主・山内豊熈が死去する。
豊熈には嗣子がなかったため、実弟の山内豊惇が跡を継ぐが ……
山内容堂が亡くなってから、152年と117日が経過しました。(55635日)