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新田義貞(にったよしさだ)

御家人、武将[日本]

(建武5年閏7月2日没)

(ユリウス暦) 1338年 8月17日 死去討死

新田義貞 - ウィキペディアより引用

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。
姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。
河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。
父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。
官位は正四位下、左近衛中将。
明治15年(1882年)8月7日贈正一位。
建武の元勲の1人。
概要= 上野国新田荘の御家人であったが、元弘の乱(1331年 - 1333年)では後醍醐天皇に呼応して、足利高氏の名代・足利千寿王(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉討伐軍に参加する。
義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。
後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人となった。
しかし、建武の新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏と後醍醐天皇との間で建武の乱が発生すると、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命される。
各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。
東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。
軍記物語『太平記』等でその活躍が描かれ、楠木正成に次ぐ南朝の武将として顕彰された ……

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