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北条守時(ほうじょうもりとき)

武将、鎌倉幕府第16代執権[日本]

(元弘3年5月18日没)

(ユリウス暦) 1333年 6月30日 死去自刃享年39歳

北条守時 - ウィキペディアより引用

北条 守時(ほうじょう もりとき)は、鎌倉時代末期の武将。
北条氏の一門。
鎌倉幕府第16代・最後の執権(在職:正中3年4月24日(1326年5月26日) - 正慶2年/元弘3年5月18日(1333年6月30日))。
赤橋 守時(あかはし もりとき)とも呼ばれる。
鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。
父は赤橋流の北条久時。
同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹登子の婿(義弟)にあたる。
生涯= 永仁3年(1295年)、北条久時の子として誕生した。
徳治2年(1307年)10月1日、13歳で従五位下・左近将監に叙任される。
元服時には征夷大将軍の守邦親王を烏帽子親とし、偏諱を与えられて守時と称す。
赤橋流北条氏は、北条氏一門において得宗家に次ぐ高い家格を有し、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが、将軍より一字を与えられる特権を許されていた。
ただし守時は久明親王在任時から官位を受けるなど既に元服していた可能性もある。
応長元年(1311年)6月5日、引付衆就任を経ずに評定衆に任命された。
嘉暦元年(1326年)3月の嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が4月24日に16代執権となる。
しかし実権は、出家していた得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や、内管領の長崎高資らに握られていた。
正慶2年/元弘3年(1333年)5月、姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏) ……

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