護良親王(もりよししんのう)
後醍醐天皇の皇子、天台座主[日本]
(建武2年7月23日没)
(ユリウス暦) 1335年 8月12日 死去暗殺
護良親王(もりよししんのう、もりながしんのう)は、鎌倉時代末期から建武の新政期の皇族・僧侶・武将・天台座主・征夷大将軍。
還俗前の名は尊雲法親王(そんうんほっしんのう)、通称を大塔宮(「おおとうのみや」、「だいとうのみや」)ともいう。
一般に後醍醐天皇の第三皇子とされるが、一宮(第一皇子)という説もある。
母は民部卿三位で、北畠師親の娘の資子という説と、勘解由小路経光(広橋経光)の娘の経子という説がある。
尊珍法親王の異父弟。
興良親王の父。
元弘の乱で鎌倉幕府を打倒することに主たる功績を挙げ、建武の新政では征夷大将軍に補任。
しかし足利尊氏を疎む護良は、武士を好み彼を寵愛した父とはすれ違いが多く、将軍を解任され、やがて政治的地位も失脚、鎌倉に幽閉される。
のち、中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。
鎌倉宮の主祭神。
生涯=
元弘の乱以前=
誕生=
比叡山延暦寺の護良親王御遺跡
延慶元年(1308年)、尊治親王(後の後醍醐天皇)の皇子として生まれる。
2017年時点では、護良親王の母の出自は確定してない。
『増鏡』などから確実にわかっていることは、「民部卿三位」と呼ばれたことと、後醍醐天皇と関係を持つ前は、後醍醐の祖父である亀山天皇と交際関係があり、聖護院准后尊珍法親王という皇子を生んでいることの2点のみである。
詳細は民部卿三位の項を参照。
当時は母の ……