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三浦胤義(みうらたねよし)

武将[日本]

(承久3年6月15日没)

(ユリウス暦) 1221年 7月6日 死去自害

三浦胤義 - ウィキペディアより引用

三浦 胤義(みうら たねよし)は、鎌倉時代前期の三浦一族の武将。
三浦義澄の末子(九男)。
鎌倉幕府の御家人。
承久3年(1221年)の承久の乱では京方の主力として戦った。
経歴= 元久2年(1205年)の畠山重忠の乱、牧氏事件に兄の三浦義村とともに出陣。
建暦3年(1213年)の和田合戦でも功を立て、建保6年(1218年)6月27日の源実朝の左大将拝賀には衛府の一人として参列していたことが『吾妻鏡』で裏付けられる。
その後、京に上って検非違使判官に任じられたとされるものの、その時期や経緯は不明。
慈光寺本『承久記』によれば、後鳥羽上皇の近臣の藤原秀康から挙兵計画への参加を説得された際、秀康から本拠地である三浦や鎌倉を振り捨て都で宮仕えしているのには何か訳があるのだろうと訊ねられた胤義は、自分の妻は二代将軍・源頼家の愛妾で若君(禅暁)を生んだが、頼家は北条時政に殺されてしまった。
さらに若君もその子の義時に殺されてしまった。
自分は先夫(頼家)と子を北条氏によって殺されて嘆き悲しむ妻を憐れに思い、鎌倉に謀叛を起こそうと京に上ったと述べている。
その一方で古活字本『承久記』には「大番ノ次デ在京シテ候ケレバ」とあり、大番役として上京したまま任期が明けてもそのまま京に留まっていたと読み取ることも可能で、また前田家本『承久記』には、頼朝・頼家・実朝三代の将軍を失って鎌倉には自分が主として仰ぐ人はいなくなったからだと ……