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三浦義村(みうらよしむら)

武将[日本]

(延応元年12月5日没)

(ユリウス暦) 1239年 12月31日 死去

三浦 義村(みうら よしむら)は、鎌倉時代初期の相模国の武将。
鎌倉幕府の有力御家人。
桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄の次男(嫡男)。
生涯= 幕府創設期= 三浦義村が初めて史料に登場するのは『吾妻鏡』寿永元年(1182年)8月11日条である。
源頼朝正室(のちの政子)の安産祈願の祈祷のため、伊豆・箱根の両権現と近国の寺社に奉幣使を立てた記事の中に「安房東条庤」へ遣わされた使者として「三浦平六」という名前が見える。
これが義村である。
また元暦元年(1184年)8月には源範頼を総大将とする平家追討軍に父・義澄とともに従軍、これが史料で確認できる初めての従軍となる。
なお、『源平盛衰記』37巻ではこの追討軍の構成について「十五六ハ小、十七以上ハ可㆓上洛㆒ト被㆑定タリ」としており、参加資格は17歳以上であったことがわかる。
歴史学者の高橋秀樹は義村がこれ以前に従軍した形跡がないことから、この年に17歳になった可能性が高いとして、生年を仁安3年(1168年)としている。
その後も文治元年(1185年)10月には頼朝の勝長寿院供養に供奉、同3年(1187年)8月には鶴岡八幡宮の放生会で射手を勤めている。
そして建久元年(1190年)の頼朝上洛にやはり父・義澄とともに供奉し、頼朝より有功の者として義澄が推挙を受けたため、既に叙任を受けていた父の勲功を譲られるかたちで右兵衛尉に任官した。
梶原景時の変・畠山重忠の乱・牧氏の変= 建久10年 ……

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