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藤原定家(ふじわらのさだいえ)

公家歌人[日本]

(仁治2年8月20日没)

(ユリウス暦) 1241年 9月26日 死去享年80歳

藤原定家 - ウィキペディアより引用

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。
藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男。
最終官位は正二位・権中納言。
京極殿または京極中納言と呼ばれた。
『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。
概要= 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、歌道における御子左家の支配的地位を確立。
日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた。
2つの勅撰和歌集『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰進したほか、秀歌撰に『定家八代抄』がある。
歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。
家集に『拾遺愚草』がある。
拾遺愚草は六家集のひとつに数えられる。
また、宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じた。
定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」。
一方で、『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった(この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった)。
また、『松浦宮物語』の作者は定家とする説が有力である。
18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(2000年に国宝に指定)を残した。
このうち、建仁元年(1201年)に後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』(国宝)と呼ぶ。< ……

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