九条兼実(くじょうかねざね)
公卿[日本]
(承元元年4月5日薨去)
(ユリウス暦) 1207年 5月3日 死去享年59歳
九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。
藤原北家、関白・藤原忠通の六男。
官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。
月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。
通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。
五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。
五摂家のうちこの3家を九条流という。
摂政・関白藤原忠通の六男。
母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。
同母兄弟4人の中の長子である。
同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。
兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。
生涯=
有職の公卿=
久安5年(1149年)、摂政・藤原忠通の六男として生まれる。
母の身分は低かったが、異母姉である皇嘉門院の猶子となり(『兵範記』保元元年正月4日条)、保元3年(1158年)には兄・基実の猶子の資格で元服、正五位下に叙せられ、左近衛権中将に任ぜられる。
永暦元年(1160年)には従三位となり、公卿に列した。
保元の乱で勢力を後退させた摂関家は、故実先例の集積による儀礼政治の遂行に特化することで生き残りを図ろうとしていた。
皇嘉門院の庇護を受けて兼実も学問の研鑽を積み、有職故実に通暁した ……