桐谷洗鱗(きりやせんりん)
日本画家[日本]
1932年 7月19日 死去享年56歳
桐谷 洗鱗(きりや せんりん、1877年9月1日 ‐ 1932年7月19日)は、明治時代の口絵画家、大正時代から昭和時代にかけての日本画家、版画家。
仏画の権威として活躍したが、急逝した。
来歴=
富岡永洗及び橋本雅邦の門人。
新潟県三島郡宮本町(現・長岡市)に生まれる。
本名は長之助。
深見和久太の四男であったが桐谷姓を継いだ。
20歳の時に上京、永洗に師事している。
永洗が没した時、その夭折を惜しむ記事を投稿している。
その後、雅邦に就いて東京美術学校日本画家選科を卒業し、1907年に文展に入選。
翌年から京都、奈良の寺院をめぐり、1909年、「訪古画帖」を作る。
仏教画の方に進み始めた。
この間、京都の「日出新聞」に挿絵を描く。
1911年、古代インド美術研究のためインドに渡り、タゴールらと交遊、岡倉天心とも会う。
1911年帰国し、1917年に再びインドに渡り、アジャンター壁画を摸写。
文展には1916年「仏地憧憬の旅」、1917年「涼園」を出品。
関東大震災後の1924年(大正13年)に伝統木版画の技法によった『大正震災木版画集』(36図)を画報社から磯田長秋、西沢笛畝、織田観潮、川崎小虎、川村彩天とともに1月から毎月3図ずつ刊行している。
1930年楽山荘壁画21面などを制作、仏画の権威として活躍。
この間、3年ポーランド・ワルシャワでの日本宗教芸術展に作品100余点を出品。
1931年の際には国賓待遇を受けたという。
1932年、仏教発祥の地でありなが ……
桐谷洗鱗が亡くなってから、92年と125日が経過しました。(33728日)