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秋田雨雀(あきたうじゃく)

作家詩人、童話作家[日本]

1962年 5月12日 死去享年79歳

秋田雨雀 - ウィキペディアより引用

秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月30日 - 1962年〈昭和37年〉5月12日)は、日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家である。
本名は徳三(とくぞう)。
略歴= 前列左から宮本百合子、湯浅芳子。
右端は秋田。
モスクワにて撮影。
産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれる。
黒石尋常小学校、青森県立第一尋常中学校(青森県立弘前高等学校の前身)を経て東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学する。
在学中の1904年、詩集「黎明」を刊行。
1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表。
小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、戯曲への関心を深める。
1909年小山内薫の自由劇場に参加。
1911年「自由劇場」の第四回公演で、自身の戯曲「第一の暁」が初めて上演された。
1913年、島村抱月主宰の劇団・芸術座の創設に参加。
翌1914年に脱退し、沢田正二郎らと美術劇場を結成。
以後、芸術座、先駆座などに参加(先駆座は相馬黒光の実家につくった劇場で、1923年に上演)。
その一方で、小説、劇作、詩、童話、評論、翻訳と幅広く活躍した。
1915年、来日したワシーリー・エロシェンコと親交を結んでエスペラントを学び、彼と島村ら文化人との親交を取り持った。
1921年には小坂狷二と共にエスペラント教本『模範エスペラント独習』 ……

秋田雨雀が亡くなってから、62年と193日が経過しました。(22839日)

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