宮本百合子(みやもとゆりこ)
作家[日本]
1951年 1月21日 死去髄膜炎菌敗血症享年53歳
宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年(明治32年)2月13日 - 1951年(昭和26年)1月21日)は、日本の昭和期の小説家・評論家。
旧姓は中條(ちゅうじょう)、本名はユリ。
日本女子大学英文科中退。
18歳で『貧しき人々の群』を発表し天才少女と注目された。
米留学後結婚したが離婚、その経緯をまとめた『伸子』を発表。
その後ソ連を訪れ日本共産党に入党。
宮本顕治と結婚。
再三検挙されながらも執筆活動を続けた。
戦後は『歌声よ、おこれ』を書いて民主主義文学運動の出発を宣言、『播州平野』『風知草』『二つの庭』『道標』などを書いた。
日本の左翼文学・民主主義文学、さらには日本の近代女流文学を代表する作家の一人である。
来歴=
生い立ち=
中條ユリは、大正時代の著名な建築家中條精一郎と妻・葭江の長女として、東京市小石川区原町(現・文京区千石1丁目 )に生まれた。
父・精一郎は山形県米沢に生まれ、東京帝国大学工科大学建築科を卒業後、文部省の技師を経て札幌農学校土木工学科講師嘱託となった。
母・葭江は明治初期に思想家として活躍した西村茂樹の長女で、華族女学校出の才媛。
父方の祖父・中條政恒は元米沢藩士で、明治には福島県典事を勤め、安積疏水の開鑿に尽力した。
父の仕事の関係で3歳まで札幌で育ち、その後東京の本郷区駒込千駄木林町(現・文京区千駄木5丁目)に転居するも父親は英国へ単身留学する。
6歳のとき叔父(ホーリネ ……
宮本百合子が亡くなってから、73年と316日が経過しました。(26979日)