平林たい子(ひらばやしたいこ)
作家[日本]
1972年 2月17日 死去享年68歳
平林 たい子(ひらばやし たいこ、1905年(明治38年)10月3日 - 1972年(昭和47年)2月17日)は、日本の小説家。
本名タイ。
職を転々としながら、同棲、離別、検挙、生活破綻、中国大陸や朝鮮での放浪などを経て、その体験から『嘲る』『施療室にて』を発表。
プロレタリア作家として出発した。
戦後は反共姿勢を強め、晩年は難病に苦しんだが、社会や人生の不条理を逞しい筆致で描いた作品で知られた。
没後日本芸術院賞・恩賜賞を受け、平林たい子文学賞が設定された。
生涯=
左から一人おいて、円地文子、神近市子、平林たい子。
1937年頃、岩手県平泉町の中尊寺にて。
竹山恒寿(中央)と平林たい子。
『アサヒグラフ』 1954年新年号 朝日新聞社より。
『週刊文春』 1959年12月14日号 文春歌舞伎『京鹿子娘道成寺』の一場面。
右から、加藤芳郎、平岩弓枝、小山いと子、芝木好子、五味康祐、平林たい子、森田たま
現在の長野県諏訪市(旧諏訪郡中洲村)出身。
貧しい農家に生まれ、12歳の頃にロシア文学を読んだことがきっかけで作家になることを決心し、上諏訪町立諏訪高等女学校(現在の長野県諏訪二葉高等学校)に首席で入学。
高女時代に社会主義に関心を持ち始め、同校卒業後に上京して交換手見習いとして働き始め、アナーキスト山本虎三と同棲。
山本の姉を頼って朝鮮に渡るが、1ヶ月で帰国。
関東大震災直後のどさくさの中で検挙され、東京から離れることを条件 ……
平林たい子が亡くなってから、52年と297日が経過しました。(19290日)