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八木保太郎 氏(やぎやすたろう)

脚本家[日本]

1987年 9月8日 死去黒色腫享年85歳

八木保太郎 - ウィキペディアより引用

八木 保太郎(やぎ やすたろう、1903年2月3日 - 1987年9月8日)は、日本の脚本家である。
俳優を志すも助監督となり、サイレント映画時代に脚本家としてデビュー、トーキー時代に名を成し、30代で東京発声および満映の製作部長を歴任、戦後は映画界初の産別組織「日本映画演劇労働組合」委員長、日本シナリオ作家協会会長を歴任、インディペンデント製作会社「八木プロダクション」を主催した。
戦前の一時期、毛利 三郎(もうり さぶろう)、毛利 三四郎(-さんしろう)名義でも執筆した。
来歴・人物= 1903年(明治36年)2月3日、群馬県群馬郡京ヶ島村大字萩原(現在の高崎市萩原町)に生まれる。
1917年(大正6年)、京ヶ島村立京ヶ島尋常高等小学校(現在の高崎市立京ヶ島小学校)を卒業、家業の農家を継ぐが、18歳のころに家出して上京、帝国劇場の建築現場などで働く。
20歳になる1923年(大正12年)7月、徴兵検査を受け、丙種合格となる。
同年9月1日に起きた関東大震災のときには、必死に馬小屋から馬を引き出したという。
その後の秋に上京、江口薇陽、森岩雄、田中栄三による「日本映画俳優学校」に入学、第1期生となる。
同期に小杉勇ら、後輩に佐分利信らがいた。
1925年(大正14年)、田中の紹介で、神戸の山本嘉次郎と岡田嘉子の独立プロダクションに参加するがすぐに解散、翌1926年(大正15年)、再度田中の紹介で映画監督の溝口健二と出会い、紹介されて日活大将軍撮影所助監督 ……

八木保太郎さんが亡くなってから、37年と75日が経ちました。(13589日)

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