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井上金峨(いのうえきんが)

儒学者[日本]

(天明4年6月16日没)

1784年 8月1日 死去享年53歳

井上 金峨(いのうえ きんが、享保17年(1732年) - 天明4年6月16日(1784年8月1日))は、江戸時代中期の日本の儒学者である。
折衷学を大成させたことで知られ、学派闘争を否定し蘐園学派(徂徠学)を痛烈に批判した。
名は立元、字は順卿(純卿)、通称は文平。
号は金峨のほか、考槃翁・柳塘閑人等。
略歴[編集] 祖先は信濃の出身で、九世前の大膳という祖先は織田信長に仕え本能寺にて戦死したと伝えられる。
この大膳の子の六朗から代々医者となり、祖父の喜庵・父の寛斎ともに藩医として常陸国笠間藩(現在の茨城県笠間市)の井上正之に仕えた。
父の寛斎は医学書『経験方録』(全55巻)を著している。
金峨は江戸青山百人町にある笠間藩邸にて生まれたが、幼少期は笠間で過ごしている。
父が江戸詰となってから、かねてから親交のあった伊藤仁斎門下の川口熊峯(かわぐちゆうほう)に師事し古義学を学ぶ。
その後、儒官林鳳岡門下でありながら荻生徂徠を敬慕する井上蘭台に就き、折衷学を学ぶ。
24歳の時、金峨は家業の藩医を捨てて儒学者を志し、当初駒込に仮住まいし聴講者を集めて講義をした。
この際一人当たり30文を講義料として徴収しており、日に150人以上集ったということであるから銅銭4貫500文を得ていたことになり衣食住には充分な稼ぎだったようだ。
このような受講料を得て講義することを粥講(いくこう)というが、以降駒込にて塾を行うものはすべて金峨 ……

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井上金峨が亡くなってから、239年と358日が経過しました。(87653日)

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