荻生徂徠(おぎゅうそらい)
儒学者[日本]
(享保13年1月19日没)
1728年 2月28日 死去享年63歳
荻生 徂徠(おぎゅう そらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。
名は双松(なべまつ)、字・実名は「茂卿」で、字としては「もけい」、実名としては「しげのり」と読む。
通称は惣右衛門(そうえもん)。
徂徠(そらい)と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、また、蘐園(けんえん)とも号した。
「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される。
本姓は物部氏で、「物徂徠(ぶっそらい)」「物茂卿」とも号した。
父は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の侍医だった荻生景明。
弟は第8代将軍となる徳川吉宗の侍医を務め、明律の研究で知られた荻生北渓。
概要=
朱子学や伊藤仁斎の仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を標榜した。
古代の言語を全く知らないと朱熹を批判し、多くの場合、仁斎をも批判した。
ただし、仁斎の解釈への批判は、それに相当する記述が『論語古義』に見えない場合もある。
生涯=
『教導立志基』「物徂徠」(小林清親筆)。
勉学に励む上総時代の徂徠を描く。
江戸に生まれる。
幼くして学問に優れ、林春斎や林鳳岡に学んだ。
しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りに触れた父が江戸から放逐され、それによる蟄居に伴い、14歳に ……
荻生徂徠が亡くなってから、296年と265日が経過しました。(108379日)