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林鳳岡(はやしほうこう)

儒学者[日本]

(享保17年6月1日歿)

1732年 7月22日 死去享年88歳

林鳳岡 - ウィキペディアより引用

林 鳳岡(はやし ほうこう、寛永21年12月14日(1645年1月11日) - 享保17年6月1日(1732年7月22日))は、江戸時代前期・中期の儒学者。
特に元禄時代の将軍・徳川綱吉のもと江戸幕府の文治政治の推進に功績があったひとり。
父は林鵞峰。
名は又四郎・春常・信篤。
字は直民。
号は鳳岡・整宇。
人物略歴[編集] 湯島聖堂 儒学者・林鵞峰の次男として江戸に生まれた。
兄の春信(梅洞)が早世したため林家を継いだ。
延宝8年(1680年)に父・鵞峰が死去したのちは、その職禄を継いで大蔵卿法印・弘文院学士となった。
その後、江戸幕府の4代将軍・徳川家綱以後、8代将軍・徳川吉宗まで5代にわたって幕府に仕えた。
特に5代将軍・綱吉、8代将軍・吉宗からの信任が厚く、綱吉の命により殿中諸士に講義したこともある。
元禄4年(1691年)、それまで上野の不忍池の池畔にあった家塾が、湯島に移され湯島聖堂として竣工したのにあわせて大学頭に任じられた。
このときまで儒者は仏僧の風にしたがい、士籍に入ることもできなかったが、鳳岡は強くこれに反対の意を表明した。
これにより、同年、束髪改服を命じられ、従五位下に叙せられた。
以後、鳳岡は聖堂学問所(のちに昌平坂学問所)を管掌し、大学頭の官職も林家が世襲することとなり、また、それまで僧形で勤めていた儒官の制度も終わりを告げて、儒学者は一般に士として扱われるようになった。
その後、鳳岡は吉宗までの歴 ……

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林鳳岡が亡くなってから、292年と3日が経過しました。(106656日)