林鵞峰(はやしがほう)
儒学者[日本]
(延宝8年5月5日没)
1680年 6月1日 死去享年63歳
林 鵞峰(はやし がほう、元和4年5月29日(1618年7月21日) - 延宝8年5月5日(1680年6月1日))は、江戸時代前期の儒者。
林羅山の三男。
名は春勝・恕、通称は又三郎、字は子和・之道。
号は春斎・鵞峰・向陽軒など。
来歴=
京都出身。
那波活所に漢学を、松永貞徳に和学を学ぶ。
その後、父羅山同様江戸に赴き江戸幕府に仕えた。
寛永11年(1634年)徳川家光に拝謁して幕政に参与する。
父羅山の死後の明暦3年(1657年)林家を継ぐ。
寛文3年(1663年)、4代将軍徳川家綱に五経を講義して弘文院学士号を与えられ、訴訟関係・幕府外交の機密にあずかった。
儒学の学説の面では大きな功績を残さなかったが、林家の私塾を教科や教育課程の整備をすることで、幕府公認の学校(のちの昌平坂学問所)へと昇格させた意義は大きい。
寛文5年(1665年)に『本朝一人一首』を編み、上代期から天正期まで約300名の日本漢詩の詩評と小伝を著している。
日本史に通じ、父羅山とともに『日本王代一覧』『本朝通鑑』(『本朝編年録』)『寛永諸家系図伝』など、幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた。
多方面な関心をいだいて博学広才ぶりを発揮した父羅山にくらべ、鵞峯は、『本朝通鑑』や『日本王代一覧』などにおいて「日本」の国柄がどのようなものであったかを追究し、幕府政治の正統性や妥当性がどうあればいいかについて、その支配イデオロギー形成の端 ……
林鵞峰が亡くなってから、344年と192日が経過しました。(125838日)