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青柳種信(あおやぎたねのぶ)

福岡藩士国学者[日本]

(天保6年12月17日没)

1836年 2月3日 死去享年70歳

青柳種信 - ウィキペディアより引用

青柳 種信(あおやぎ たねのぶ)は江戸時代後期の国学者、福岡藩士。
沖ノ島御番中に記した『瀛津島防人日記』、藩公式の地誌『筑前国続風土記拾遺』の編纂、三雲南小路遺跡出土物の研究等で知られる。
生涯= 生い立ち= 明和3年(1766年)2月20日、筑前国福岡城下地行六番町下之組、西側往還から10軒目に生まれた。
父勝種は江戸や長崎、沖ノ島へ度々赴任して家を開けることが多かったため、安永5年(1776年)荒戸四番町馬廻組長浜九郎右衛門の許に預けられ、学芸を学んだ。
安永7年(1778年)3月父が隠居したため、青柳家に戻り家督を継いだ。
安永10年(1780年)麁原村顕乗寺東隣金山家宅を借り、兄が養子に入った井本家と同居した。
2度の江戸勤番= 天明2年(1782年)江戸詰となり、天明4年(1784年)江戸藩邸で侍講井土南山に左国史漢を学び、天明6年(1786年)村山新兵衛が藩邸寄合長屋に開いた学舎で子弟の教育に当たった。
天明6年(1786年)南山と共に香取神宮、鹿島神宮、筑波山等を巡り、11月19日帰国した。
帰国後、南山の紹介で天明7年(1787年)秋月藩藩校稽古館に入学した。
また江戸滞在中に国学に関心を持ち、帰国後島井俊雄、田尻道足、細井三千代麿と交流を持った。
3人から本居宣長高弟小篠道冲が長崎に向かったことを聞くと、同僚の佐賀出張を肩代わりして長崎まで足を伸ばしたが、行き違いになり天明8年(1788年)帰国した。
寛政元年(1789年)再び江戸詰となると、往 ……

青柳種信が亡くなってから、188年と291日が経過しました。(68958日)