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徳川家綱(とくがわいえつな)

第4代江戸幕府将軍[日本]

(延宝8年5月8日没)

1680年 6月4日 死去享年40歳

徳川家綱 - ウィキペディアより引用

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍(在職:1651年 - 1680年)。
生涯= 将軍就任= 寛永18年(1641年)8月3日、第3代将軍・徳川家光の長男として江戸城本丸に生まれる。
母は七澤清宗の養女・楽子。
幼名は竹千代。
乳母は川崎(真現院)・三沢局。
父の家光は、生まれた時から家綱を自らの後継ぎに決めていたという。
その理由は、家光と弟の忠長との間で世継争いがあったためとも、ようやく生まれた待望の男児だったためともいわれている。
正保元年(1644年)12月、名を家綱と改め、正保2年(1645年)4月に元服する。
慶安3年(1650年)9月に西の丸へ移る。
慶安4年(1651年)4月20日、家光が48歳で薨去すると、家綱は8月18日(10月2日)、江戸城において将軍宣下を受けて第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられた。
幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した。
12月には本丸へ移る。
この前例を受け、家綱以後(最後の慶喜を除く)の将軍宣下は京都ではなく、江戸で行われることとなる。
治世前半= 家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められた。
特に保科正之を主導者にして外様大名などに一定の配慮を行ない、末期養子の禁を緩和し、大名家臣から証人をとることの廃止や殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から文治政治への政策切り替えが行われた。
万治2年(1659年)4月には左大 ……

徳川家綱が亡くなってから、344年と140日が経過しました。(125786日)

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