保科正之(ほしなまさゆき)
信濃高遠藩・出羽山形藩・陸奥会津藩 藩主[日本]
(徳川秀忠の実子、寛文12年12月18日没)
1673年 2月4日 死去享年63歳
保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代前期の大名。
会津松平家の祖。
信濃国高遠藩藩主、出羽国山形藩藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主となった。
江戸幕府初代将軍徳川家康の孫、第2代将軍徳川秀忠の子であり、3代将軍徳川家光の異母弟、4代将軍徳川家綱と5代将軍徳川綱吉の叔父である。
家光と家綱を輔佐し、幕閣に重きを成した。
生涯=
生い立ち=
慶長16年(1611年)5月7日、2代将軍・徳川秀忠の四男(庶子)として誕生。
母は静(志津、後の浄光院)で、秀忠の乳母・大姥局の侍女で、北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘(『以貴小伝』・『会津家世実記』)、もしくは武蔵国板橋郷竹村の大工の娘(『柳営婦女伝系』)である。
幼名は幸松丸。
秀忠は慶長15年(1610年)2月から3月、慶長17年(1612年)3月から4月には駿府へ赴いているほか江戸近郊で鷹狩を行っており、静の妊娠はこの間のことであると考えられている。
近世武家社会においては、正室の体面・大奥の秩序維持のため侍妾は正室の許可が必要で、下級女中の場合にはしかるべき家の養女として出自を整える手続きが必要であったと考えられている。
また、庶子の出産は同様の事情で江戸城内で行なわれないことが通例であった。
母・静は、神田白銀町にある姉の夫・竹村助兵衛次俊の屋敷にて出産した(「会津松平家譜」)。
慶長18年(1613年)の春からは、武田信玄の次女で穴山信君の正室だった見性 ……
保科正之が亡くなってから、351年と287日が経過しました。(128490日)