松平容保(まつだいらかたもり)
会津藩主、日光東照宮宮司[日本]
1893年 12月5日 死去肺炎享年59歳
松平 容保(まつだいら かたもり、天保6年12月29日〈1836年2月15日〉- 明治26年〈1893年〉12月5日)は、幕末の大名。
陸奥国会津藩9代藩主(実質的に最後の藩主)。
京都守護職。
高須四兄弟の一人で、水戸藩主・徳川治保の曾孫。
現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。
生涯=
松平容保肖像画(会津武家屋敷所蔵)
生誕=
天保6年(1835年)12月29日、江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で藩主・松平義建の六男(庶子)として生まれる。
母は側室の古森氏。
幼名を銈之允と称す。
弘化3年(1846年)4月27日、実の叔父(父の弟)にあたる会津藩第8代藩主・容敬の養子となり、和田倉門内、会津松平家上屋敷に迎えられる。
「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったという。
ここで藩主容敬より会津の家風に基づいた教育を施されることになる。
それは神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教による「義」と「理」の精神、そして会津藩家訓による武家の棟梁たる徳川家への絶対随順から成り立っており、のちの容保の行動指針となった。
嘉永4年(1851年)、会津へ赴く。
文武を修め、追鳥狩を行い、日新館に至り文武の演習を閲す。
会津藩主就任=
嘉永5年(1852年)2月10日、藩主容敬が亡くなり、2月15日、封を継ぎ会津藩主・肥後守となる。
嘉永6年(1853年)4月、安房、上総の警備地を巡視し、士卒の操練や船の運用を見る。
10月、会津藩、品川第二砲台管守を命じられる ……
松平容保が亡くなってから、130年と350日が経過しました。(47833日)