近藤勇(こんどういさみ)
新撰組組長、幕臣、慶応4年4月25日没[日本]
1868年 5月17日 死去斬首享年35歳
近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年10月5日〈1834年11月5日〉- 慶応4年4月25日〈1868年5月17日〉)は、江戸時代末期の武士。
新選組局長。
後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。
勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)。
慶応4年(1868年)からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。
家紋は丸の内に三つ引。
天然理心流四代目宗家。
生涯=
壬生寺にある近藤勇の像
生家の隣にある近藤神社
出生から試衛場入門=
天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる。
幼名は勝五郎、後に勝太と改める。
久次郎には勝五郎のほかに、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎(音次郎)、次男・粂蔵(くめぞう、粂次郎、惣兵衛)がいる。
ほか、祖父の源次郎がいる。
天保9年の上石原村の宗門人別改帳によれば、宮川家は多摩郡大沢村(三鷹市)の龍源寺の檀家で、高七石一升二合の6人家族。
石高から中流クラスの上層の家庭環境であったと判断される 。
嘉永元年(1848年)11月11日、勝五郎は江戸牛込(東京都新宿区)に所在する天然理心流剣術道場・試衛場に入門する。
勝五郎が入門した道場は「試衛館」として知られるが、多摩郡蓮光寺村(多摩市)の名主・富沢政恕日記および小島鹿之助『両雄士伝』によれば「試衛」は号で、「試衛場」と記されている。
翌嘉永2年6月に目録を ……
近藤勇が亡くなってから、156年と166日が経過しました。(57145日)