秋月種樹(あきづきたねたつ)
政治家、書家[日本]
1904年 10月17日 死去享年71歳
秋月 種樹(あきづき たねたつ)は、幕末・明治期の政治家。
日向国高鍋藩の世嗣。
貴族院議員、参与、明治天皇侍読。
詩文に優れ、書家としても知られた。
経歴=
9代高鍋藩主・秋月種任の三男として生まれる。
安井息軒、塩谷宕陰らに師事する。
若年より英明で知られ、秋月楽山は小笠原明山(長行)、本多静山(正訥)と並んで”学問界の三公子”と称された。
文久2年(1862年)11月14日、部屋住みの身でありながら幕府学問所奉行に登用される。
文久3年(1863年)6月26日、兄種殷の養子となる。
同年9月28日、若年寄格との兼任を命じられた。
秋月家は2万7000石の外様大名であり、異例の抜擢であった。
元治元年(1864年)5月28日、学問所奉行を解任されて、将軍徳川家茂の侍読に任じられた。
慶応3年(1867年)6月21日、若年寄に任ぜられるものの、幕府は長州征伐に失敗し既にその威信は失われており、種樹は病と称して拝命にも出仕にも応じなかった。
これに幕府側は医師を遣わすとまで言いだし、高鍋藩士の水筑小一郎・黒木鷲郎兄弟は薩摩藩と謀り、品川湊に停泊中であった薩摩の翔凰丸に種樹を乗せ脱出させた。
翔凰丸は幕府の戦艦の砲撃により大破しながらもどうにか兵庫に辿り着いたのであるが、江戸では翔凰丸が撃沈されたとの風聞が立ち、種樹も運命を共にしたのではないかとされた。
それより然る後に大政奉還が成り、種樹は改めて江戸城へ出仕し同年12月25日に若年 ……
秋月種樹が亡くなってから、120年と35日が経過しました。(43865日)