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板倉勝静(いたくらかつきよ)

備前松山藩主、老中首座[日本]

1889年 4月6日 死去享年67歳

板倉勝静 - ウィキペディアより引用

板倉 勝静(いたくら かつきよ)は、幕末の大名。
備中松山藩7代藩主。
板倉宗家13代当主。
江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座(筆頭)を歴任した。
生涯[編集] 文政6年1月4日(1823年2月14日)、陸奥白河藩主松平定永の八男として生まれた。
天保13年(1842年)、第6代備中松山藩主・板倉勝職の婿養子となり、嘉永2年閏4月6日(1849年5月27日)に養父の隠居にともない備中松山5万石の家督を継いだ。
農商出身の陽明学者山田方谷を抜擢し、藩校有終館の学頭とした。
方谷の助言のもと藩政改革を行って徹底した倹約により財政を改善し、殖産興業で藩の負債をなくしただけでなく余財をなし、軍政改革にも着手することができた。
安政4年(1857年)、この藩政改革が評価されて幕府から奏者番兼寺社奉行に任じられた。
しかし、安政の大獄で井伊直弼の強圧すぎる処罰に反対して寛大な処置を行ったため、直弼の怒りを買って同6年(1859年)に罷免された。
直弼死後の文久元年(1861年)、再び奏者番兼寺社奉行として幕政に復帰した。
翌文久2年(1862年)には老中に昇格し、混乱する幕末政局の安定化に努めて東禅寺事件に対処し、14代将軍徳川家茂の上洛に随行した。
生麦事件の賠償問題や、孝明天皇から受けた攘夷勅命の遵守が不可能であった問題などから、一時は老中職を罷免されたが、慶応元年(1865年)に老中に再任された。
第2次長州遠征では長州藩への寛典論を主張したが、退けら ……

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板倉勝静が亡くなってから、135年と108日が経過しました。(49417日)