山下耕作 氏(やましたこうさく)
映画監督[日本]
1998年 12月6日 死去多臓器不全享年69歳
山下 耕作(やました こうさく、1930年〈昭和5年〉1月10日 - 1998年〈平成10年〉12月6日)は、日本の映画監督。
時代劇・任侠映画を中心に、テレビ時代劇も演出してきた。
鹿児島県阿久根市出身。
鹿児島県出水高等学校・京都大学法学部卒業。
愛称は同姓の軍人・山下奉文にちなんで「将軍」。
両者に縁戚関係はない。
長男は映画監督の山下耕一郎、次男はテレビドラマの監督でテレビ映画制作会社「京都組」代表取締役の山下智彦。
略歴=
京都大学卒業後、東映の入社試験を受け成績トップ。
しかし当時の東映に入社する社員は何らかの縁故がなければ入れず、しかも山下は全学連くずれであることから東映の重役連中は不採用にしようとした。
ところが当時の東映京都撮影所製作部長だった岡田茂が「ああいうのこそ根性があるから、映画をやらさないといかん。
縁故だの全学連だのそういうことは関係ない」と重役連中を説き伏せ、マキノ光雄の「岡田、お前が選んだ奴を入れろ」と言う賛同もあり、山下は1952年5月15日に東映に入社できた。
月給9千円。
同期に工藤栄一。
山下は初め映画監督になる気は全くなく、人事部、厚生部など労務関係の部署をまわっていたが、1955年、都度都度喧嘩ばかりするのを見た岡田から助監督に廻される。
内出好吉・内田吐夢・吉村公三郎・佐々木康・河野寿一・沢島忠・今井正らの助監督を経て、1961年 『若殿千両肌』で監督デビュー。
1963年 長谷 ……
山下耕作さんが亡くなってから、25年と351日が経ちました。(9482日)