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川上操六(かわかみそうろく)

陸軍大将、子爵[日本]

1899年 5月11日 死去享年52歳

川上操六 - ウィキペディアより引用

川上 操六(かわかみ そうろく、1848年12月6日〈嘉永元年11月11日〉 - 1899年〈明治32年〉5月11日)は、明治期の日本の陸軍軍人。
旧薩摩藩臣。
官位は参謀総長・陸軍大将。
栄典は従二位・勲一等・功二級・子爵。
桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。
長男の素一は陸軍歩兵少佐、娘は小原伝陸軍中将に嫁ぐ。
略歴= 薩摩国鹿児島郡鹿児島城外吉野村中ノ町にて、島津氏譜代の臣川上伝左衛門親徳の第3子として生まれる。
幼名は宗之丞。
母は肝付氏の五郎兵衛の娘のなか子。
兄に藤七親綱、弟に茨城県警察部長となった親義がいる。
その下の弟である丈一は西南の役で戦死した。
川上氏は島津家一族で、その庶流であったが、数代前に家運が衰微したため、祖父の時に鹿児島城下より寒村の吉野村に移っていた。
藩校造士館で学び、慶応2年(1866年)には18歳で同館の師員に列した。
慶応3年(1867年)洋式兵制導入とともに分隊長に抜擢され、明治元年正月(1868年)に十番隊隊長中島健彦に従い上洛、戊辰戦争に身を投じ、鳥羽・伏見の戦い以降、越後・出羽・箱館へと転戦した。
戦後上京し明治4年(1871年)4月よる陸軍に出仕。
同年7月、陸軍中尉・御親兵第2大隊付に任ぜられる。
近衛歩兵第3大隊長、近衛歩兵第2連隊大隊長、参謀局出仕を経験し階級は陸軍少佐に昇る。
明治10年(1877年)の西南戦争では、山県有朋陸軍卿の使命を領して単身熊本城に入り ……

川上操六が亡くなってから、126年と97日が経過しました。(46119日)

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