山県有朋(やまがたありとも)
長州藩士、政治家、内閣総理大臣、元帥陸軍大将、公爵[日本]
1922年 2月1日 死去気管支カタル享年83歳
山縣 有朋(やまがた ありとも、旧字体:山縣 有朋󠄁、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家。
最終階級・称号は元帥陸軍大将。
位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。
内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。
概説=
幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介・小輔・狂助・狂輔。
変名として萩原鹿之助の名も用いた。
1871年以降に有朋の諱を称した。
号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪。
長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問を修めて松下村塾に入り尊王攘夷運動に従事。
高杉晋作が創設した奇兵隊で軍監となり、戊辰戦争で転戦した。
明治維新後の1869年に渡欧し、各国軍制を視察して1870年の帰国後に兵部大輔に就任。
西郷隆盛とともに御親兵の組織と廃藩置県に尽力。
1873年の陸軍省創設で陸軍卿に就任。
1878年にはドイツに倣った参謀本部を創設し初代参謀本部長に就任。
1878年の軍人訓誡、1882年の軍人勅諭の起案、頒布にあたった。
1882年には参事院議長、1882年に内務卿、1885年に第1次伊藤内閣の内務大臣に就任し、黒田内閣でも留任。
1884年に伯爵、1890年に陸軍大将に昇進した。
1889年に第1次山縣内閣を組閣。
軍備拡張をめぐり民党と対立し、自由 ……
山県有朋が亡くなってから、102年と306日が経過しました。(37562日)