沢島忠 氏(さわしまただし)
映画監督、演出家[日本]
(1950-60年代にかけて、数多くの時代劇や任侠ものを手掛ける)
2018年 1月27日 死去多臓器不全享年93歳
沢島 忠(さわしま ただし、旧字体:澤島、1926年5月19日 - 2018年1月27日)は、日本の映画監督、舞台演出家である。
時代劇、ひばり映画、および東映任侠映画の先駆者・巨匠として知られ、舞台演出家としても活躍していた。
沢島 正継(読みは同じ)とも。
来歴=
滋賀県愛知郡(現在の東近江市)に生まれる。
八日市中学校(現・滋賀県立八日市高等学校)卒業。
1948年(昭和23年)、同志社大学文学部の聴講生となり、同大で教えていた野淵昶監督に師事、野淵の主宰する劇団「エランヴィタール」に参加し、演出助手となる。
翌年大学を中退する。
1950年(昭和25年)3月、同劇団が解散、俳優の月形龍之介の紹介で東横映画助監督部に入社する。
翌年の3社合併で東横は東映になり、引き続き東映京都撮影所に勤務、マキノ雅弘、松田定次、渡辺邦男らに師事する。
1955年(昭和30年)4月、28歳のとき、渡辺邦男監督のスクリプターで、戦前に「マキノ東京派」と呼ばれたタカマツ・アズマプロダクションの高松豊次郎の孫娘にあたる高松富久子と結婚する。
のちに『暴れん坊兄弟』(1960年)などの脚本家としてクレジットされる「鷹沢和善」は富久子との共同ペンネームである。
1957年(昭和32年)に監督昇進、『忍術御前試合』で監督デビューとなる。
1967年(昭和42年)、東映との契約を解消、東京映画専属、1971年(昭和46年)には「コマ・プロダクション」を設立、フリーランスとなる。
1977 ……
沢島忠さんが亡くなってから、6年と298日が経ちました。(2490日)