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堺駿二(さかいしゅんじ)

喜劇俳優、コメディアン[日本]

1968年 8月10日 死去脳溢血享年56歳

堺駿二 - ウィキペディアより引用

堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年(大正2年)12月10日 - 1968年(昭和43年)8月10日、本名栗原 正至)は、東京都出身のコメディアン、喜劇俳優である。
実兄は浪曲師の初代港家小柳丸、次男にマルチタレントの堺正章がいる。
また甥に太神楽曲芸のボンボンブラザースの鏡味繁二郎(本名・栗原重夫)がいる。
来歴・生涯= 幼少期・中学時代= 東京市本所区太平町1丁目(現・東京都墨田区錦糸町)の桶製造業の家に8人兄弟の末子3男として生まれる。
芝居好きの母の勧めで尋常小学校を中退して11歳で新派の伊村義雄一座に入る。
伊村は師匠の伊井蓉峰と河合武雄から一字ずつもらって芸名とした新派俳優で、20代半ばで一座を立ち上げ、浅草公園六区の公園劇場を中心に活躍していた。
小村正雄を芸名とし、子役ながらも殺陣をやらせたり、女形を演じさせても上手にこなすので、伊村から養子を懇望されたという。
1932年(昭和7年)に帰国していた早川雪洲の一座に弟子入り、堺駿二の芸名を貰う(由来は、「雪洲と栗原の間に境をつけたい」と雪洲が思っていた事に由来。
「駿二」は、雪洲の洲(しゅ)に由来)。
入門には兄の小柳丸の浪曲家仲間で雪洲の元同級生だった東家楽燕に口利きを頼んだ。
雪洲の付き人も兼ね、雪洲から「君は少し足りない役どころのほうがいい」と言われる。
早川一座が休演中は南田一郎という名で地方公演に出ていた。
この頃、松竹少女歌劇団の新人踊り子だ ……

堺駿二が亡くなってから、56年と103日が経過しました。(20557日)

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