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マキノ光雄(まきのみつお)

映画プロデューサー[日本]

1957年 12月9日 死去享年49歳

マキノ光雄 - ウィキペディアより引用

マキノ 光雄(マキノ みつお、明治42年(1909年)11月15日 - 昭和32年(1957年)12月9日)は、日本の映画プロデューサー。
「日本映画の父」として知られる牧野省三の第六子(次男)であるが、母方の姓を継いだので本名は多田 光次郎(ただ みつじろう)である。
子役時代の芸名は牧野 光次郎、別名として多田 満男、牧野 満男、マキノ 満男がある。
父の没後のマキノ・プロダクション御室撮影所総務部長、日活京都撮影所製作部次長、同多摩川撮影所企画部長、満洲映画協会娯楽映画部長、東横映画撮影所長、東映東京撮影所長、同社専務取締役製作部長を歴任した。
来歴[編集] 1909年(明治42年)11月15日、京都市西陣に生まれる。
多田姓は母方の姓である。
子供の頃から父の映画に子役として「牧野光次郎」名義で出演、映画業界の息吹の中で成長する。
1921年(大正10年)に同志社中学に入学するとラグビーに熱中する傍らキリスト教に入信。
一方で、放蕩を尽くし中学卒業前日に退学させられる。
1927年(昭和2年)に勉強の名目で東京へ出るが、都内の映画館にかかるマキノ・プロダクションの映画の歩合金を横取りして飲み遊ぶ。
厳格だが愛情深い省三はこれを怒らず、京都に戻った光雄を御室撮影所に毎日連れていった。
1928年(昭和3年)の本宅の焼失、スターの大量退社に揺れるマキノプロで逆境に燃えた光雄の兄・弱冠20歳のマキノ正博は、山上伊太郎と時代劇の傑作『浪人街』を生むが ……

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マキノ光雄が亡くなってから、66年と230日が経過しました。(24337日)