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徳川頼宣(とくがわよりのぶ)

初代紀州藩主[日本]

(徳川家康の十男、寛文11年1月10日没)

1671年 2月19日 死去享年70歳

徳川頼宣 - ウィキペディアより引用

徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、紀伊国和歌山藩の初代藩主。
紀州(紀伊)徳川家の祖。
生涯[編集] 慶長7年(1602年)3月7日、徳川家康の十男として伏見城で生まれる。
家康59歳。
母は、於万の方(養珠院)。
童名は長福(長福丸)といい、叔父・松平定勝の幼名を与えられた。
徳川頼房の同母兄。
慶長8年(1603年)9月11日、異母兄・武田信吉が死去。
同年11月7日、2歳にして、信吉の遺領である常陸国水戸20万石を継いだ。
同年、幕臣で、伯父にあたる三浦為春が頼宣の傅(もり)となった。
同9年(1604年)12月、5万石加増。
頼宣は水戸には入らず、伏見城や江戸城の家康のもとで育てられた。
慶長11年(1606年)8月11日、元服する。
従四位下侍従に任じられ、徳川常陸介頼将と名乗る。
同12年(1607年)、幕府大番頭・水野重仲も頼宣の傅となる。
同13年(1608年)、父・家康が駿府で大御所政治を始めると、頼宣も同所に移った。
慶長14年(1609年)、家康の命を受けた傅役・三浦為春が加藤清正のもとに赴き、清正の息女・八十姫(瑤林院)を頼宣の室に迎える旨を伝えた(翌年9月、為春は、清正の領国・肥後国に下って婚礼の吉儀を納めた)。
慶長14年12月、頼宣は駿河国・遠江国および東三河、計50万石に転封された。
同15年(1610年)、安藤直次も傅となった。
慶長16年(1611年)3月、参議となる(左中将如元)。
同月28日、豊臣秀頼が家康と会見するため二条城に来た ……

徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、紀伊国和歌山藩の初代藩主。
紀州(紀伊)徳川家の祖。

関連作品

徳川頼宣が亡くなってから、353年と156日が経過しました。(129089日)