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蒲生忠郷(がもうたださと)

陸奥会津藩主[日本]

(寛永4年1月4日没)

1627年 2月19日 死去享年26歳

蒲生 忠郷(がもう たださと)は、陸奥会津藩第2代藩主。
初代藩主蒲生秀行の長男。
母は徳川家康の三女・振姫。
生涯[編集] 慶長7年、会津藩主 蒲生秀行 の嫡子として生まれた。
慶長17年(1612年)5月、父の秀行が死去したために11歳で会津60万石を継ぐ。
9月、家康によって元服、松平姓と将軍徳川秀忠の偏諱を与えられ、また祖父・蒲生氏郷より1字を取って松平忠郷(蒲生忠郷)と称した。
なお、『氏郷記』には弟鶴松(丸)(のちの忠知)も同時に元服したとあるが、その後の文書にも忠郷と鶴松の名が併記されたものがあるため、忠郷が先に元服したと考えられる。
しかし、未だ若年であったため母振姫の後見を受けた。
しかし、慶長18年(1613年)に母・振姫の勘気を受けた仕置(家老)岡重政が死罪となり、重政との対立で出奔していた蒲生郷成や関元吉らが呼び戻された(ただし、郷成は帰国途中で病死し、遺児の蒲生郷喜・蒲生郷舎兄弟のみが復帰)。
その後、重政派とみられた外池良重が出奔、仕置の1人であった町野繁仍も老齢を理由に隠退したため、玉井貞右と町野幸和が仕置として政務を執ることになった。
また、元和元年(1615年)には振姫も浅野長晟との再婚を理由に蒲生家や子供達から引き離されている。
慶長19年(1614年)から始まった2度の大坂の陣においては江戸留守居を命じられる。
その後も、広島藩の福島正則や山形藩の最上義俊の改易に際して城受取のために出 ……

蒲生忠郷が亡くなってから、397年と156日が経過しました。(145160日)