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蒲生忠郷(がもうたださと)

陸奥会津藩主[日本]

(寛永4年1月4日没)

1627年 2月19日 死去享年26歳

蒲生忠郷 - ウィキペディアより引用

蒲生 忠郷(がもう たださと、慶長7年(1602年)- 寛永4年1月4日(1627年2月19日))は、陸奥会津藩第2代藩主。
初代藩主蒲生秀行の長男。
母は徳川家康の三女・振姫。
正室は藤堂高虎の娘。
官位は従三位参議、下野守。
幼名亀千代。
生涯 慶長17年(1612年)5月、父の秀行が死去したために10歳で会津60万石を継ぐ。
9月、弟鶴千代(のちの忠知)と共に家康によって元服、松平姓と将軍徳川秀忠の偏諱を与えられ、また祖父・蒲生氏郷より1字を取って松平忠郷(蒲生忠郷)と称した。
しかし、未だ若年であったため母振姫の後見を受けた。
母振姫の勘気による仕置、家老岡重政の死罪、祖父・氏郷の時代から弟・忠知の時代まで続いた重臣間の抗争など家中は安定しなかった。
そのためか慶長20年(1615年)の大坂の陣においては江戸留守居を命じられる。
治世においては会津若松城の天守を五層に改築する、恵隆寺の再建を援助する、領内の飢饉に際して餅・酒・豆腐の製造禁止令を出すなどの事跡が伝わる。

がもう-たださと 1603-1627江戸時代前期の大名。慶長8年生まれ。蒲生秀行の長男。母は徳川家康の3女振姫。慶長17年10歳で陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩主となる。若年のため家中を統率できないまま,寛永4年1月4日25歳で死去。跡継ぎがなく,会津60万石は幕府に没収された。かわりに弟の忠知に伊予松山20万石と近江(おうみ)(滋賀県)日野4万石の合計24万石があたえられた。 (引用元 コトバンク)