藤堂高虎(とうどうたかとら)
戦国武将、伊勢津藩主[日本]
(寛永7年10月5日生)
1630年 11月9日 死去享年75歳
藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。
津藩藤堂家(藤堂家宗家)初代。
藤堂高虎は、黒田孝高、加藤清正と並び、「築城三名人」の一人と称される。
数多くの築城の縄張りを担当し、層塔式天守を考案。
高石垣の技術をはじめ、石垣上には多聞櫓を巡らす築城の巧みさは、その第一人者といっても過言ではない。また外様大名でありながら徳川家康の側近として幕閣にも匹敵する実力を持つ、異能の武将であったといえる。
系譜=
従来、藤堂氏の系譜は村を代表する土豪層とされ、高虎は土豪から大名へとのし上がったとされてきた。
しかし、先祖にあたる藤堂景盛が公家の広橋兼宣に仕える侍であったことが明らかになっている。
公家侍藤堂氏は、古記録に登場しており、京都にも拠点を持つ有力領主であった。
生涯=
主家転々の時代=
弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。
母「とら」は多賀良氏の娘であったが、その後、藤堂忠高の養女となっている。
幼名を与吉と名乗った。
幼少の頃より人並み外れた体格で、壮年の乳母の乳では足らず、数人の女性の乳を貰ったとされる。
性格も荒く、3歳の頃には餅を5つ、6つ食べることもざらで、ケガをしても痛いと言ったことがないと伝わる。
13歳の時には、兄 ……
藤堂高虎が亡くなってから、394年と9日が経過しました。(143918日)