李舜臣Yi Sun-sin
将軍[朝鮮]
(慶長の役で講和が成立した後、撤退する日本軍を約束を違えて奇襲し、返り討ちに遭い戦死。)
1598年 11月19日 死去戦死享年54歳
李 舜臣(り しゅんしん、イ・スンシン、이순신(南)/리순신(北)、1545年4月28日〈明暦:嘉靖24年3月8日〉- 1598年12月16日〈明暦:万暦26年11月19日〉)は、李氏朝鮮の将軍。
字は汝諧(じょかい、ヨヘ、여해)。
文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い活躍し、韓国では「救国の英雄」とされている。
朝鮮内の党争の影響で李の対立側である元均らの勢力によって、懲罰を受けて兵卒に落とされ一時失脚していたが、軍を率いていた元均が戦死したことで危機感を覚えた朝鮮王によって復権して日本軍と戦ったが、露梁海戦で戦死した。
死後に贈られた諡は忠武公(충무공)。
生涯=
生い立ち=
本貫は徳水李氏。
京畿道開豊郡の出身で、漢陽(別名:漢城、現:ソウル特別市)の乾川洞(現:中区乙支路)に生まれた。
父は李貞。
4人兄弟の三男で、兄弟の名前は上から順に羲臣(ヒシン)、堯臣(ヨシン)、舜臣(スンシン)、禹臣(ウシン)。
彼ら兄弟の名前は中国の伝説上の帝王である伏羲、堯、舜、禹などの一字を取って名付けられた。
子は李薈、李䓲、李葂、李薰、李藎ら。
後に、朝鮮の領議政(現在の首相に相当)となる3歳年上の柳成龍も同地で生まれており、李舜臣とは幼馴染の仲にあった。
舜臣は幼い時から勇猛果敢な性格だったとされ、22歳から武科の試験(科挙)を受け始めたが、初の試験では落馬し、合格したのは1576年、32歳のときであった。
舜臣の母の実家がある忠清南道 ……
李舜臣が亡くなってから、426年と0日が経過しました。(155596日)