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貝原益軒(かいばらえきけん)

本草学者、儒学者[日本]

(正徳4年8月27日没)

1714年 10月5日 死去享年85歳

貝原益軒 - ウィキペディアより引用

貝原 益軒(かいばら えきけん、1630年12月17日(寛永7年11月14日) - 1714年10月5日(正徳4年8月27日))は、江戸時代の本草学者(現代で言う薬学者)、儒学者。
50年間に多くの著述を残し、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育などの分野で先駆者的業績を挙げた。
生涯・人物= 貝原益軒座像(福岡市中央区金龍寺) 筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれる。
名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。
1648年(慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年(慶安3年)、2代藩主黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。
1656年(明暦2年)27歳、3代藩主光之に許され、藩医として帰藩。
翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。
このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。
また、同藩の宮崎安貞が来訪した。
7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応を任され、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。
40歳のとき4代藩主黒田綱政から荒津東浜(現在の荒戸1丁目)に屋敷を与えられ、生涯の住まいとした。
藩命により『黒田家譜』を編纂。
また、益軒の上申から黒田藩が1688年(元禄元年)に『筑前国続風土記』の編纂を認めている。
1699年、70歳で役を退き著述業に専念 ……

貝原益軒が亡くなってから、310年と45日が経過しました。(113273日)