伊達綱宗(だてつなむね)
陸奥仙台藩主[日本]
(正徳元年6月4日没)
1711年 7月19日 死去享年72歳
伊達 綱宗(だて つなむね)は、江戸時代前期から中期の大名。
仙台藩3代藩主。
伊達氏19代当主。
官位は従四位下・左近衛権少将、陸奥守、美作守。
生涯=
隠居事件=
2代藩主・伊達忠宗の六男として誕生する。
母は側室の貝姫。
幼名は巳之介。
母が後西天皇の母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。
貝姫は早くに病没したため、父・忠宗の正室である振姫の養子となった。
六男であったが、正保2年(1645年)の兄・光宗の夭折により嫡男となり、忠宗から自身の後継者と3代将軍・徳川家光に披露された。
承応3年(1654年)に元服し、4代将軍・徳川家綱から一字を拝領して綱宗と名を改めるとともに従四位下・美作守となる。
万治元年(1658年)7月に父が亡くなり、9月に幕府から家督相続の許しを受けたことで仙台藩3代藩主となる。
綱宗は若年で家督を継いだが、酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。
さらには叔父に当たる陸奥一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の十男で、忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされて幕命により万治3年(1660年)7月18日、不作法の儀により21歳で隠居させられた(綱宗隠居事件)。
家督は綱宗の2歳の長男・亀千代(後の伊達綱村)が継いだ。
この間の経緯であるが、池田光政(岡山藩主)、立花忠茂(筑後柳河藩主)、京極高国(丹後宮津藩主)ら ……
伊達綱宗が亡くなってから、313年と124日が経過しました。(114447日)