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伊達宗勝(だてむねかつ)

陸奥一関藩主[日本]

(延宝7年11月4日没)

1679年 12月6日 死去享年59歳

伊達 宗勝(だて むねかつ)は、江戸時代前期の大名。
陸奥国仙台藩支藩・陸奥一関藩主。
官位は従四位下・兵部大輔。
伊達騒動の中心人物の一人。
官名の兵部大輔による伊達 兵部の呼び名で知られる。
生涯= 元和7年(1621年)、陸奥仙台藩初代藩主・伊達政宗の十男として誕生した。
幼名は千勝丸。
異母兄・忠宗が存命中は特に目立った行動はなかったが、万治元年(1658年)に忠宗が死去して綱宗が跡を継ぐと、藩祖・政宗の子であることから家中で一目置かれ、綱宗の庶兄・田村宗良と共に藩政を補佐した。
嫡子・宗興の正室に酒井忠清の養女を迎えるなど幕府との繋がりも強く、万治3年(1660年)には3万石の分知を受けて大名となった。
同年、綱宗が幕命によって隠居を余儀なくされ、その跡を僅か2歳の長男・綱村が継ぐと、宗勝はその後見人となって仙台藩を専横するようになった。
そのような中で寛文11年(1671年)、伊達騒動(寛文事件)が起こり、仙台藩は改易の危機に立たされた。
これは当時、4代将軍・徳川家綱のもとで大老として権勢を誇っていた酒井忠清と宗勝が密約を結んで、仙台藩を事実上乗っ取るつもりだったとも言われているが、幕府の裁定によって藩主・綱村は若年であるということでお咎め無しの上、仙台藩は安泰とされた。
しかし、宗勝は年長の後見役でありながらみだりに刑罰を科して仙台藩政の混乱をもたらし、果ては江戸での刃傷沙汰という不祥事 ……

伊達宗勝が亡くなってから、344年と319日が経過しました。(125965日)