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伊達綱村(だてつなむら)

陸奥仙台藩主[日本]

1719年 8月5日 死去享年61歳

伊達綱村 - ウィキペディアより引用

伊達 綱村(だて つなむら)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。
仙台藩4代藩主。
伊達氏20代当主。
3代藩主・伊達綱宗の長男。
官位は従四位上・左近衛権中将、陸奥守、贈従三位。
「塩釜の恩人」とされている。
生涯[編集] 万治2年3月8日(1659年4月29日)、伊達綱宗の嫡男として誕生(伊達政宗の曾孫に当たる)。
母は三沢清長の娘・初子。
幼名は亀千代丸。
元服の際は父と同じく4代将軍・徳川家綱より偏諱を与えられて、初め綱基(つなもと)、後に綱村(つなむら)と名乗った。
以後、養子となった吉村から四代後の斉村まで「村」の字が通字として世襲されていく。
伊達騒動[編集] 万治3年(1660年)7月、父・綱宗の叔父に当たる伊達宗勝(陸奥一関藩主)の政治干渉や家臣団の対立などの様々な要因が重なり父が隠居させられ(詳しくは伊達綱宗を参照)、僅か2歳(満年齢で1歳4か月)で家督を相続した。
宗勝や自身の叔父に当たる田村宗良(陸奥岩沼藩主)などが後見人となったが、家中では父の時代から続く家臣の対立や宗勝の専横などが続き、混乱が続いた。
しかも寛文6年(1666年)には、綱村自身が何者かの手(宗勝の側近)によって毒殺されかけるほどであった。
このような混乱続きの中、寛文11年(1671年)に伊達騒動(寛文事件)が勃発し、伊達家は改易の危機に立たされたが、綱村自身が若年であったことから幕府の裁定ではお咎めなしとされ、宗勝ら関係者 ……

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伊達綱村が亡くなってから、304年と355日が経過しました。(111391日)