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黒田忠之(くろだただゆき)

筑前福岡藩主[日本]

1654年 3月30日 死去享年53歳

黒田忠之 - ウィキペディアより引用

黒田 忠之(くろだ ただゆき)は、江戸時代前期の大名。
筑前国福岡藩2代藩主。
江戸三大御家騒動の一つ、黒田騒動の原因を作った当主として記録に残る。
生涯= 慶長7年(1602年)11月9日、福岡藩初代藩主・黒田長政と継室・栄姫(大涼院・徳川家康養女)の嫡男として筑前福岡城内の藩筆頭家老・栗山利安の屋敷にて生まれる。
のち駿府城において、長政と共に将軍・徳川家康に拝謁している。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では長政が幕府から江戸城留守居を命じられたため、代わりに出陣している。
長政はその際、関ヶ原の戦いの折に家康より拝領した金羊歯前立南蛮鉢兜を忠之に与え、1万の軍を率いさせている。
福岡藩2代藩主= 元和9年(1623年)、徳川家光将軍宣下の先役を命じられた長政と京都へ同行したが、長政が報恩寺にて病により死去し、家督を継ぐ。
当初、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠から偏諱を授かり、忠長(ただなが)や忠政(ただまさ)を名乗っていたが、この時に忠之に改めた。
以後、徳川将軍家は福岡藩の歴代藩主・嫡子に松平の名字と将軍の偏諱を授与していく。
また、父の遺言で弟の長興に5万石(秋月藩)、高政に4万石(東蓮寺藩)を分知した。
これにより石高は43万3千余石となった。
黒田騒動= 忠之は生まれながらの大藩の御曹司であり、祖父や父とは違い、性格も奔放でわがままであったという。
外見は華美で派手なものを好み、藩の財力でご禁制の ……

黒田忠之が亡くなってから、370年と233日が経過しました。(135376日)

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