長谷川雪堤(はせがわせってい)
絵師[日本]
1882年 3月15日 死去享年70歳
長谷川 雪堤(はせがわ せってい、文化10年1月〈1813年の2月頃〉- 明治15年〈1882年〉3月15日)は、江戸時代後期後半から明治時代初期にかけての日本の絵師。
氏姓は後藤を名乗るが、本姓は金沢である可能性が高い。
画姓は父に倣って長谷川を名乗る。
名は宗一。
画号は、雪堤のほか、雪江(せっこう)・梅紅・松斎(しょうさい)・巌松斎・雪汀がある。
長谷川雪旦の長男。
弟子に長谷川雪塘などがいる。
略歴=
江戸出身。
文政2年(1819年)生まれともいわれるが、誤りと考えられる。
早くから父・雪旦に学び、粉本類には父子で模写したものが多く見られる。
父譲りの技量を発揮し、名所絵や人物画を多く残した。
なかでも、天保10年(1839年)刊行の地誌『相中留恩記略』で挿図を担当したことは、父が『江戸名所図会』の挿図を担当して名を成したのと同様、名所絵師としての雪堤の名を高めた。
また、尾張藩の「藩士名寄」(※藩士の務め書)に名は無いものの、同藩の同朋格として遇されたという。
父・雪旦が天保14年(1843年)に死去してのちは、画業もやや精彩を欠いた。
1882年(明治15年)3月15日に死去。
享年70、満年齢69歳であった。
父と同じく当時は浅草新谷町(のちの浅草芝崎町。
現在の東京都台東区西浅草3丁目)にあった妙祐山幸龍寺に葬られた。
その後、寺は関東大震災で罹災・焼失し、昭和初期になってから墓地ともども世田谷区北烏山へ移転している ……
長谷川雪堤が亡くなってから、142年と250日が経過しました。(52116日)