蒲生氏郷(がもううじさと)
戦国大名[日本]
(文禄4年2月7日没)
1595年 3月17日 死去享年40歳
蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
初め近江日野城主、次に伊勢松坂城主、最後に陸奥黒川城主。
蒲生賢秀の三男(嫡男)。
初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。
キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(レオ、またはレアン)。
子に蒲生秀行。
織田信長に人質ながらも寵愛され、信長の娘である冬姫を娶る。
信長死後には各地で功績を挙げ、秀吉からも重用された。
最終的には会津藩92万石となり黒川城を与えられ、改築して若松城と名を改め、会津藩の基盤を築いた。
また、千利休の弟子であり、利休七哲にも数えられる一流の茶人でもあった。
出自=
→詳細は「蒲生氏」を参照
蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。
ただし、蒲生氏などの近江関係の系図には沢田源内や椿井政隆による偽書・偽文書の影響を受けているものもあって同時代史料との比較検討を必要とする、という見解もあり、氏郷の祖先で確実に動向が追えるのは15世紀初めの蒲生秀兼以降とされる。
生涯=
織田家臣時代=
近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれる。
幼名は鶴千代と名付けられた。
永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した。
鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。
我 ……
蒲生氏郷が亡くなってから、429年と247日が経過しました。(156939日)