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六角承禎(ろっかくじょうてい)

戦国大名[日本]

(諱・義賢、慶長3年3月14日没)

1598年 4月19日 死去享年78歳

六角承禎 - ウィキペディアより引用

六角 義賢(ろっかく よしかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・守護大名。
近江国守護。
南近江の戦国大名。
六角氏15代当主。
観音寺城主。
官位は従五位下・左京大夫。
剃髪後は承禎(じょうてい)と号した。
生涯= 家督相続= 大永元年(1521年)、六角定頼の嫡男として誕生。
天文2年(1533年)4月21日、観音寺城で元服し、室町幕府12代将軍・足利義晴より偏諱を受け、義賢と名乗った。
父・定頼の晩年から共同統治を行ない、父と共に姉婿に当たる細川晴元を援助して、三好長慶と戦った(江口の戦い)。
天文21年(1552年)、父の死去により家督を継いで六角家の当主となる。
六角家は甲賀郡を含む近江国の守護であり、更に他国の伊賀国の4郡の内の3郡の間接統治も行っていた。
弘治3年(1557年)、嫡男・義治に家督を譲って隠居し、剃髪して承禎と号したが、実権は永禄11年(1568年)のいわゆる永禄崩れまで握り続けた。
三好氏、浅井氏との争い= 父の死後も13代将軍・足利義輝や細川晴元を助けて三好長慶と戦うが、優勢であった三好氏との勢力差が逆転し、敗戦し続けた。
しかし永禄元年(1558年)、北白川の戦いの後に義輝と長慶の和睦を仲介することで義輝を京都に戻し、面目を保っている。
これを契機に、対立していた北近江の浅井久政が六角領に対して侵攻を開始するが撃退し浅井氏を従属下に置いた。
従属関係を強調するため、久政の嫡男に偏諱を ……

六角承禎が亡くなってから、426年と213日が経過しました。(155810日)

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