荒木村重(あらきむらしげ)
戦国武将[日本]
(天正14年5月4日歿)
1586年 6月20日 死去享年52歳
荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
利休十哲の1人である。
生涯
池田・織田家臣時代
天文4年(1535年)、荒木義村(信濃守)の子として生まれた。
母は中川佐渡守の妹(『荒木略記』)。
幼名は十二郎(十次郎)。
通称は、弥介、または弥助(彌助)。
はじめ池田勝正(長正の次の当主)の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り、その一族衆となる。
しかし、三好三人衆の調略に乗り、池田知正(長正の長男)と共に三好氏に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ、池田氏を掌握する。
元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて、三好氏から織田家に移ることを許された。
天正元年(1573年)、茨木城主となり、同年に信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。
一方、義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って、村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田氏を乗っ取る形となった(下克上)。
天正2年(1574年)11月15日、摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。
翌年、有馬郡の分郡守護であった赤松氏を継承する摂津有馬氏を滅ぼして、同郡を平定する。
村重は細川政権・三好政権を通じての摂津統治の中心であった芥川山城・越水城の両城を廃して、有岡城(伊丹 ……
荒木村重が亡くなってから、438年と151日が経過しました。(160131日)