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和田惟政(わだこれまさ)

戦国武将[日本]

(「摂津国白井河原の戦い」で戦死、元亀2年8月28日没)

(ユリウス暦) 1571年 9月17日 死去討死

和田惟政 - ウィキペディアより引用

和田 惟政(わだ これまさ)は、戦国時代の武将。
室町幕府の御供衆[1]。
足利義輝・義昭に仕えた[2]。
『寛政重修諸家譜』(以下、『寛政譜』)では維政とも記載している[3]。
伊賀守[3]。
生涯= 父は、『寛政譜』では宗立[3]、「和田系図」『諸家系図纂』では伊賀守惟助とする[2]。
父は、天文18年(1549年)、42歳のとき、伊賀かけの谷で討死した[3]。
はじめ、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕える[3]。
永禄8年(1565年)5月19日、義輝が三好三人衆や松永久秀らの軍勢によって殺害される[4](永禄の変)。
和田家の家伝では、当時、惟政は義輝の不興を買って和田で謹慎を命じられていたため事件に巻き込まれずに済んだという。
事件を知った惟政は、興福寺に軟禁されていた義輝の弟・一乗院覚慶(足利義昭)を、細川藤孝らと共に救い出して甲賀の自城に匿ったとされる[5][6](『大阪府史』によれば、覚慶ははじめ近江の土豪・和田秀盛を頼り、のち、秀盛の一族で、幕府の御供衆でもあった惟政に守られ、近江国矢嶋(滋賀県守山市矢島)に移ったとする[1]。
『守山市史』は、7月28日、藤孝らにより脱出に成功し、甲賀郡にある惟政の館に逃れた後、矢島氏の館に移ったとしている[7])。
和田惟政は甲賀を、仁木義政は伊賀を拠点としていることから、義昭を奈良から伊賀を経由して甲賀に脱出させ、近江の六角氏を説得して上洛する計画であったとみられている。
実際、惟政は六角義賢を ……

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